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脱サラ→赤帽→運送会社– 昔の話し –

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1997年 脱サラ→赤帽ももちゃん便

一部上場企業からの脱サラ

東京の 沖電気工業株式会社在職中に東京で一旗あげようと頑張り過ぎたのか、過労とストレスからと体を壊し、残業が多くなりがちな技術職での業務継続は無理との主治医の判断から退職。(退職後数年で例外的治癒して現在は健康です)

妻はサラリーマンの妻のつもりで結婚したのに、せっかくの一部上場企業を退職して真逆な世界である個人事業になると言う無謀な私の選択に賛成してくれました。

今思えば、この商売は妻の助けなければ技術バカだった私には無理でしたから数ヶ月で廃業に追い込まれたはずです。
また、当然ながら大企業の安定した職を捨てて個人事業への選択に、妻以外の周囲からは反対意見ばかり。
そんな中、意外にも国家公務員で安定した職と社会的地位を重んじ父が私の選択に反対しなかった事も救いでした。

この選択は、この開業からの5年間、妻を筆頭に、子供たち、両親にもお金をはじめとして色々な面から迷惑をかける選択だったのですが、当の本人はとても幸せに日々の赤帽業務を頑張らせて頂いておりました。若い頃とは言えども能天気でした。

まずは赤帽ももちゃん便としてスタート

ソフトウエア技術者から軽運送の個人事業主への転職であり畑違いも甚だしくノウハウが皆無でした。
そこで東京で色々な軽運送オーナー募集の説明会に足を運んでみました。
その中には騙されそうな雰囲気を感じる組織もあり、うまい話ばかり聞かされてそんな甘い話があるのか?と半信半疑でした。
そんな中で当時の東京都内の赤帽説明会では、甘い話をせず、開業を進めるでもなく逆に信用できる気がしました。

更に私の開業予定の仙台では、東京の赤帽とはまた別なやり方の組合組織なので、今一度、仙台でも説明会を受けてから決定すべきだと言う慎重な忠告も東京の赤帽組合から助言を受けました。

この東京での体験から軽貨物を開業するなら赤帽だろうと決まりつつありました。
そして仙台に戻り赤帽宮城中央センターの説明を受けてから正式に赤帽フランチャイズに加盟して赤帽組合員となりました。
「赤帽ももちゃん便」と言う屋号も取得。
現在の(株)ももちゃん便の原型となる運送店を設立したのが1997年でした。

2004年 単独の赤帽ではなく赤帽ももちゃん便グループとしてグループ化

業務規模拡大に伴って、自分一人では対応しきれなくなり「赤帽ももちゃん便グループ」と言う名称を用いて、信頼できる赤帽仲間を集めてグループ営業活動を開始。
毎日休みなく、早朝、午前、午後と多くの稼働台数が必要となる業務を複数取りまとめるようになりました。

この頃は既に顧客からも、ももちゃん便は、個人事業者では無く運送会社として扱うと言われる様になりました。

2007年 赤帽組合の広告塔になる

赤帽組合員としては珍しく、当時最先端だったインターネットを活用する営業方法も話題となり、テレビの密着取材( 東北放送 、 仙台放送 )や TBCラジオ、全国誌(リクルートアントレー別冊独立辞典特集)など頻繁に有名メディアに出させて頂きました。
その経緯で当時の全国赤帽組合連合会の副会長(森氏)とも懇意にさせて頂いており、赤帽組合の入会案内パンフレットでもモデルケースとして赤帽の広告塔的存在になった時期でした。

2009年 赤帽グループ→株式会社ももちゃん便設立

赤帽ももちゃん便グループとしての組織的な営業になり、顧客からも運送会社扱いとなり、正式に法人格を取得して「株式会社ももちゃん便」として個人事業卒業。

2009年 パワーゲート車を導入

パワーゲート付き軽トラによる超音波装置の輸送に取り組み始める。
軽運送業界では希少価値だったパワーゲート付き軽トラック(ホロ付きコンテナ)2台を増車する。

この写真は2台ともに幌付きコンテナのパワーゲート車です。

パワーゲート自体レアな存在ですが、更に幌付きコンテナは、当時は当社だけの特注での注文生産でした。

赤帽サンバースーパーチャージャーのパワーゲート幌つきコンテナ

2011年 東日本大震災

東日本大震災3.11がありました。
幸いにも当社の自宅兼事務所は、仙台でも内陸部に位置しており建物、車輛とも被害は逃れました。建物は細かい点では被害がありましたが。

また当日の当社の定期配送で沿岸部への配送は午前中のみで、震災発生した時間帯には全ドライバーが内陸に戻っており、当社の契約ドライバー全員が無事に生き残りました。

プライベートな話ですが、長女の婿殿は、震災発生から津波発生の時間帯は沿岸部でレッカー車による仕事中だったのですが、その車を乗り捨てる決断でなんとか無事に命だけは助かりました。

そのまま避難した高い建物の屋上で寒さの中で一夜を過ごしたそうです。

沿岸部へ嫁いだ長女との連絡が震災の翌日まで途絶えてしまって大変不安になりましたが、複数の避難所を探し回り、仙台市内の避難所の校庭で自家用車の中で仮眠していた娘を発見。
婿殿の待つ嫁ぎ先の東松島市への移動は道路も鉄道も寸断され無理だったので、とりあえず仙台市泉区の我が家に連れ帰りました。

当面は道路も電車も寸断されて連れて行けない状態で親子4人の懐かしい生活に戻りました。
ちなみに私自身は3.11震災発生時刻には、秋田市内で精密機械チャーター輸送途中で秋田は震度5でしたが、秋田全域が停電してそのまま夜になっても回復せず。
ガソリンが無いのにスタンドは閉鎖されており、災害時営業スタンドの看板を頼りに何時間も並んだら「緊急車両のみ受け入れます」と言われ絶望。
家が不安なのに仙台に戻れず、電話も通じない不安な一日でした。
しかし、親切な現地警察官の助けで帰り分ギリギリのガソリンをなんとかゲット。
被災した凸凹道で、街灯も信号も無い真っ暗な夜道を仙台まで戻りました。
そのあとが長女の救出でした。
震災から一週間程度経過した時には、救援物資輸送業務でマスコミも入らない沿岸部の現状を見て人生観が変わりました。

2012年 赤帽組合卒業

当時すでに赤帽組合からの下請け業務は皆無だったのですが、開業時にお世話になった赤帽組合の看板を下ろすのも寂しく、実態は独立した株式会社ももちゃん便でありながら赤帽のフランチャイズ看板だけ残して来ましたが、逆に個人事業と株式会社の違いなどの点で顧客に混乱を招く場合もあり、また赤帽の看板を所持するには赤帽専用サンバーしか所持できないが私は他の車輌が使いたい事情もありました。

ついにお世話になった赤帽組合からの脱退(今風に言うと卒業)を決意致しました。
赤帽時代とそのあとの違いは、個人様の引越しなどの受注を終了し、企業対応の運送会社として生まれ変わった点です。
こここら純粋に株式会社ももちゃん便として新スタート!
こうしてみると昨年の震災以降に大きな変化がありました。

元は赤帽カラーのパワーゲート

純白の白に全塗装

赤帽卒業で美白全塗装

赤帽組合を卒業したので、赤帽専用のカラーは塗り替え義務もあり、慣れ親しんだ赤帽カラーから純白への全塗装をジェミニオート勝美さんで実施しました。

ジェミニオートさんのプロの技で塗装された純白のトラックは美しく、まるで新車の輝き。心機一転の法人化時にぴったりでした。

赤帽専用

2012年 初めてのターボ車導入

赤帽所属では無くなったことで、赤帽専用車だけを購入する制限が無くなり、企業チャーターに最適な高性能ターボ車としてエブリーJOINターボを導入しました。

2014年 ターボ車を増やす

2014年時点で軽貨物で最高性能と思われる車を導入。
ダイハツのハイゼットクルーズカーゴ・ターボのOEM版でスバル富士重工業のサンバー・VCターボ4WD 5MTを導入。
エブリーJOINターボに比較して低燃費で馬力もあり、当社の業務に最適である上、スバルディーラーの対応も赤帽時代から営業車に慣れている為に修理メンテの対応も素晴らしいものでした。

2014年 パワーゲート軽トラック廃止

これまで力を入れて来た「パワーゲート車」の欠点を改善すべく新型特殊車両の導入。
当社だけのホンダN-Box構造変更車両です。
床を更に低床化する構造変更で営業ナンバー取得。
ホンダディーラーの対応は営業車にさほど慣れてないのですが、大変素晴らしい対応でした。
おそらく、次もホンダで買うだろうと思います。

N-Box採用(軽トラ廃止)

引越業務を卒業することで、企業の緊急チャーター便に専念するに至りました。

緊急便や精密機械対応に最適なN-Boxなどワゴン、バンに車両タイプは切り替えサンバートラックを廃止。

超音波診断装置の輸送には従来はパワーゲート軽トラックでしたが、そちらもN-Boxカスタムターボのスロープ仕様をベースに構造変更(営業貨物車として車検取得)することでパワーゲートトラックも廃止しました。

軽ワンボックス車を中心とした配車

自社の車両はN-BoxCustomターボですが、契約ドライバーさんの車両も、エブリーバン、エブリーワゴン、ハイゼットバンなど軽ワンボックス車が中心になって来ました。

赤帽車からN-Boxへ

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